江戸時代後期の公卿「源 有文」(みなもとのありふみ)が謹書された掛軸。
千種有功(ちぐさありこと)の次男で千種有文(ちぐさありふみ)ともいう。
和歌に優れ、詠歌は秋草集(あきくさしゅう)等に採録されている。和宮
の隆嫁問題で勤王浪士の誤解を受ける。落飾して自観と号し退官したが、維新
後、行政官権弁事・宮内大丞等に叙任された。
幕末尊攘派の水戸藩士・天狗党の首領、「武田耕雲斎」(たけだこううんさい)が描かれた掛軸。
同藩士・跡部正続(あとべまさつぐ)の長子として生まれ、本家を継いだのち跡部の旧姓武田を名乗る。名は正生(まさなり)。耕雲斎は号。9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の藩政改革に尽力した改革派の重臣。戸田忠太夫(とだちゅうだゆう)、藤田東湖(ふじたとうこ)と並び「水戸の三田」と称される。
祗園祭礼に用いられる「行器」。
一対とされ中にはそれぞれ特殊神饌の「オシトギ」と「オフカシ」が納められる。
オシトギとオフカシは担当する當屋が用意するとされ、祭日の丑三つ時に一升の白米を二分して五合を水に浸してオシトギを、残る五合を蒸してオフカシを作る。
これらの特殊神饌は婦女子の手を一切借りないことになっている。
祭典では、当神社の創建に縁ある橋本家の子孫の「御供盛」によって献上される。
第六十二回神宮式年遷宮の折に下附された撤下御神宝。
皇大神宮・別宮、月讀荒御魂宮(つきよみあらみたまの みや)のものとされる。
読みは「革御靭」(かわのおんゆぎ)。
長さ約八十cm、盛矢約六十本(烏羽)。
元は革で作られたが、現在は木製で黒漆が施されている。
第六十二回神宮式年遷宮の折に下附された撤下御装束。
皇大神宮・別宮、瀧原宮所管社、長由介神社(ながゆけじんじゃ)のものとされる。
読みは「御鏡」(みかがみ)。
直径約十一cm。
白銅製の鏡で水銀で磨かれた表面は数十年が経つ今でも光沢が保たれ ている。
当神社最大の祭典。
詳細は、「祇園祭と年中祭典」の「祇園祭について」を参照。
ニレ科ケヤキ属の落葉高木である素鵞神社のケヤキは、樹齢五百年以上といわれ樹高は約三十五メートル、目通り幹周囲は約六メートルを誇る。
小美玉市を代表するケヤキの一つであり、幹がまっすぐに伸び、放射状に大きく枝を張る雄大な姿は、目を見張る。
また、ヤツデの宿り木があることから猿田彦命が鎮まるといわれる。
クロウメモドキ科ケンポナシ属の落葉高木である素鵞神社のケンポナシは、樹齢二百年以上といわれ樹高は約二十五メートル、目通り幹周囲は約三、七メートルを誇る。
玄圃とは中国の玄圃山を意味し、古来より仙人が住む木とも言い伝えられ本来は山深くでないと大木にならないといわれるほど大変珍しい樹木である。
この木の特徴は秋になり実を付ける頃、果軸という枝先が肥大化する。更に、発酵酒のような甘い香りを発し、実ではなくその肥大化した枝を食すことが出来、二日酔いなどに効く薬草にもなる。
また、幹が二股に分かれていることから夫婦木であり、陰陽夫婦神の神徳が宿るといわれる。