祇園祭は、当神社の最大の祭禮であり、現在は七月の土日を含めた中旬に斎行されています。一般に「小川のぎおん」として多くの人々に親しまれており、一年で最も小川の街が活気に溢れる夏の風物詩となっています。最終日を向かえる二日間の夜には露天商が立ち並び、大勢の見物客で賑わう中、年番の踊り屋臺や九町の幌獅子が街の中央に一堂に集結し、御神輿の神事と融合一体となってダイナミックなお祭りが繰り広げられて、街は祭り一色に染められます。そこには、長い歴史と伝統を通して神への感謝と祈りが勇壮かつ格調高く体現されています。
社伝によると、旧暦の六月一日・七日・十一日・十三日(新暦では七月十一日・十七日・二十一日・二十三日)の四日間に渡って執り行われたことから「四度のまつり」(よどのまつり)と称されました。このお祭りは創建の翌年、享禄三年(一五三〇年)より今日まで約五百年続く悠久のまつりであり、御神体を御神輿に移して、仮殿や氏子の町内を渡御する一連の神事が今なお厳かに執り行われております。
特に、當屋祭と呼ばれる神事は、前年の「御神籤式」(ごしんせんしき)という神聖な式により当番日が決定した四町(大町・横町・仲田宿町・旧上宿町)が受け持つことになっています。それぞれの當屋祭では、神様へのお供えとして、御神酒や水に浸した生米を擂鉢ですった「オシトギ」と、白米を蒸かした「オフカシ」、そして稲の穂に甘酒を絡めた「アマザケ」の三種の特殊神饌が創建に縁ある子孫の宮司と御供盛によって献上されます。この神事は、創建時から継承される古式であり、小美玉市無形民俗文化財指定の所以とされています。
以下、現在の祇園祭(四度のまつり)ついてご説明致します。
「宮司」、「御供盛」、「四軒の當屋」、「壇頭」の私邸に注連縄を飾り、宮司をはじめとする役員が祭礼の無事を祈願する神事です。
各町内の境、神社入口、仮殿前、お浜降り入口、稲田姫神社前の十八ヶ所に注連飾を飾ることで九町内を清める神事です。
現在では十一日、十七日祭を合わせて注連清祓式(しめきよはらいしき)として斎行されています。
拝殿で執り行われる御神体を御神輿に移す神幸祭から始まり、御神輿は、神社から担当町内を渡御して町内に設えた御仮屋にお入りになって當屋祭が斎行され、その後、御神体が出現された縁ある園部川へ向かい、川の清水でお清めをして「常若」(とこわか)の力を得る一連の神事であります。夕刻には、祭庭に組み立てられた仮殿に御神輿は迎えられそこで一晩お泊りになります。
二十二日は御神輿は仮殿に留まり各町の幌獅子や踊り屋臺をはじめ、大勢の方々が多数参拝に訪れます。また、午後二時と七時には各町の役員が参列のもと太々神楽祭が斎行され、巫女舞が奉納されます。
また、二十三日當屋祭が担当町にて斎行されます。
二十三日祭は「本ぎおん」とも称し、陽神が愛しい妃である陰神に一年に一度だけ会いに行くことの出来る尊い神事が執り行われます。
また、御神輿の露払い役である榊神輿(さかきみこし)は、川岸町が受け持ち、先導神である猿田彦命の面が付けられています。仮殿の前では、荒々しく御榊を地面に叩き付けて、御神輿の通り道が清められます。仮殿を出た後、陽神を乗せた御神輿は、陰神を祀った稲田姫神社の正面に据えられ神事が執り行われます。稲田姫祭を終えると、御神輿は本田町に皮切りに仲田宿町、大町、川岸町、橋向町、横町、坂下町、坂上町、二本松町の順番で引き継がれ、九町内すべてを巡幸することになります。
お山入りは二本松町の氏子によって行われ、拝殿内において、御神体が本殿に還る還幸祭が執り行われます。その後、御神籤式により翌年の當屋が決定され、祇園祭は幕を閉じます。
現在の祇園祭の神事は名称は変わらず「十一日祭」、「十七日祭」、「二十一日祭」、「二十三日祭」と呼ばれていますが、時代の流れにより日程は七月中旬の土日を含めた四日間となりました。しかし、例大祭は創建日である重祭であることから今日でも変わらず七月二十三日に斎行されています。